連載3回目、今回もレビューはお休み。
ガジェット愛全開で書き溜め、咀嚼し、元がなにかわからなくなっていたものを連載で吐き出してみます。
引き続き脳内ポエムですのでその道を知らない人は、完全スルーでよろしくお願いします。
愛Phone持って立ってた例の交差点
※あくまで素人の一個人の妄想日記です。大手ガジェットサイト契約ライターさんの、ポエム風和訳記事ライクでお楽しみくださいw
そんな訳でSurfaceを皮切りに、時は満ちたとiPadがPro化してきた。憧れのProだ。PowerBook時代から、Proスペックのマシンに指を加えて見ていた。今やiMacですらProである。彼が名付けた愛(i)は、いったい誰に向いて行くのだろう。
その昔、彼は言った。
「(ノートPCのタッチスクリーンは)少し使うと疲れてきて、長く使うと腕を上げていられなくなる」と。
その回答が初代iPadだった。
初代iPadの試作機が既に出来ていたのに世に出さず、より小型で開発困難な携帯電話であるiPhone登場まで、懐に温めていたジョブズの逸話に魅力された時期があった。
このマジックをもう一度今のAppleが魅せてくれることを期待していたが、現実は違った。
フルサイズカメラとジンバルの様に、腕を鍛えないほうが何かと後退する運命だった。
しかしながら、Appleは彼のように考えた。そして「メインフレーム端末の時代から45年続いたファンクションキーにレクイエムを捧げよう」とラップトップのタッチパネルの回答は水平方向ならアリという判定が出たのだ。
アリかナシかはスピリチュアルな世界にひとまず置いとくとして、まぁ一応筋は通ってるし、何よりも現実歪曲空間で彼が良いそうなセリフだ。
一度ハンマーを投げてから手を取り合った戦友を、キッパリ捨てるより100倍人道的だ。どこかの大統領のような展開も、聴衆を魅了したのだから何があっても不思議ではない。
実はGPU界隈もこの展開を期待している。だってジーパンと革ジャンはアメリカそのものだ。99XシリーズだってMade in USAなんだから。
あれ、なんだろうこのどこか期待してる感は・・・。
そんな古い話はさておき、冒頭に書いたとおりPCがタブレットのように進化したというM社と、タブレットがPCに寄ってきたのだというA社で、鶏と卵のような盛り上がりが海の向こうで議論されている。
彼らは平行線をたどっている様で、実は交差していて例の交差点に差し掛かた時に、新しい風が生まれるんだと考えるようにした。
だから過去なんて捨ててしまえばいい。
そんな新しい風邪(風)によって起こされた波は次第に大きくなり、iPadは憧れのProを冠して魔法のように現れた。
その昔ナンセンスと言っていたスタイラスはPencilとなり、充電方法や本体の長さ、収納場所や転がるなんて話に耳を貸さなかった。
一方ライバルはスマホで収納場所を確保しつつ薄さに走り、火傷した。結果的に燃えないなら萌えなくても良くて、そんなこと議論するほうがナンセンスとなった。
そんなこんなでやっぱり最大派閥の魅力的なiPad Proの地位は変わらず、そんなに嫌ならCrayon使えばいいとある人はいう。正論である。転がるなら楕円形に削るも自由だ。直接タブレットから焼き鳥の串のように充電するのが怖いのなら、近寄らなければよいのだ。
そんなチャーミングなところが残ってるAppleはあの頃のうようにお茶目で、今も尚、LightningとType-Cや充電器の出力うんぬんでMacユーザーを魅了している。
そして今回のiPad Pro 2018(第三世代)の登場だ。船長はコンピューターという言葉をiPad Proに使った。そしてLightningコネクターを捨て、USB-Cを手に入れた。
過去のPencilは無かったことにされ、磁石でくっつくように。Windowsで既に見たとか、新型の旧機種対応などは今回も議論するほうがナンセンスとなった。
軽くない待望のAirを出し、MacBookはカニバり、ファン以外忘れ去られたMac miniと矢継ぎ早に新製品をリリース。これまでの習慣をアップル自身が裏切って来た。
これらは一体何を表しているのだろうか・・・愛が故にクック船長は舵を切り間違えたのではと思ってこれまで見てきたのだが、どうも様子は違うらしい。
例の交差点は、多様な方向へ行っていいですよと言わんばかりである。
次回へつづく